今回は完全に自分の話です。
曲がりなりにも修士は出たのですけれども社会に出てからのこの体たらく…いや学生の頃からずっとかな?
ろくなインプットも得ずくだらないインテルネッツに頭を浸し時間を溶かし、社会に出ては定型文ばかり使う職場に来てしまい、フローに沿うか沿わないかばかりを気にして生きて、行き着いた先がこちらのわたくし。
自由度の高い緩めの研究室と興味深く面白い分野に恵まれました。
くだらない面白さにかまけて学術的な興味深い面白さ(interestは噛み砕くのに体力がいるんです)をできるだけ摂取しないで済むように逃げつつ、関係分野の、直接的には関係ない分野の話題を好き好んで摂取していました。
一応学会論文も書き、修士論文も書きました。
ただしねぇ、思考能力はあまりつかなかったね。
これは他の誰のせいでもなく自分自身のせいだと思うんだけれども。
幼い頃から親や周囲のモブたちに流されるまま疑問も持たずに生きていた当方ですので、なかなか思考を深めるということが難しかった。
それから、思考を深めるためには話題に関する十分な基礎知識が必要です。
愚かなことに私はそれを意図的に怠り続けているんです。
それはもう当然議論のテーブルにもつけないわけです。
人と議論するためには対象について同じ程度の解像度を持ち合わせていなくてはお話にならない。
最近私の専門分野以外の研究者ですとか学生の方の発表を聞く機会が少しだけありまして、修士の方なのに修士を出た私よりも十分に論じることができて、なおかつ質問についても回答することができるという自分の能力の低さが露呈する状況が発生したもので、悲しみを覚えているところです。
他の方が私より真剣に学問に取り組んでいるということでしょうか。
それから私が昔から異常に自分に自信がなく自己主張ができないということも原因になっているかもしれません。
私は議論が苦手です。
コミュニケーションを取ることも苦手です。
出来なくはないと考えてはいますが、もしかして自認している“出来なくない“は他者からしてみれば筋違いの愚かにも見えるお遊びをしているだけにすぎないのかもしれません。
自己認識と他者の認識の違いは分かりません。
分かりませんが、自分で自分の思考や発言が的を射ていないことくらいはわかっています。
背景知識が乏しすぎて水辺で遊んでいる童程度の質問や賑やかししか出来ないのか、本当に思考力が足りなくて他人の主張することを一切理解できず碌な思考が出来ないまま愚かなアウトプットを続けるしかないのかが分かりません。
悲しいことですが、私には現在口頭で議論を交わす練習をする相手がいません。
内向的すぎて知り合いもいませんし、親族は遠くに住んでいますし、インターネットですらクソド陰キャを極めているため練習の場が築けません。
困ってしまっています。
何かいい方法がないだろうか。
週末に東京のどこかに出かけたら初心者論者たちが集う喫茶店やバーなどあったりしないだろうか。
私が大学から大学院まで通してお世話になった専攻とは全く関係ない、おじいちゃん先生が切り盛りしていた研究室がまさに分野不問の交流の場でとても良かった。
ああいう場に集う面白人間を相手に支離滅裂な議論を繰り広げる日々を過ごすべきだったのか。
今にして感じる場というものへのありがたさ。
アカデミアにいて一番楽しいのはああいう混沌とした場所があるという部分だった。
またあの場に帰りたい。
まぁゴールデンウィークに顔を出しに行くんですが。
失って気づくことほど虚しいことはない。
定年後もまだ同じ大学で働くのだと年末に仰っていたのでそのまま数年は彼の地に私の故郷があってくれるとありがたいのですが。
私の故郷を永らえさせるためにも、ゴールデンウィークに訪問した際には口に出さなかった感謝と思い入れをぼかさずに口に出して伝えようと思います。
とりあえず今回言いたかったこと
・日本語能力がない
・思考力が社会人になって明らかに低下している
・大学は楽しい
・良質なインプットのために本を読もう
・取り止めもない由なし事を話す仲間募集中
以上。